2009.07.30

090721SIA評論:21世紀の日本の教育 第三回:普遍の教育と不変の法則
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急激な時代の変化と普遍の教育
私が、主催している勉強会に「21世紀問題研究会」がある。1994年7月23日に発足し、各分野の一流の識者に協力を戴き、回を重ね既に15年、92回に達している。各講演者は年齢、専門領域は違うが、学ぶことが多い。やはり根底となる原理原則は時代を超え領域を超え共通している事に驚かされる。この研究会の発足の趣旨は日本にとって狂瀾怒涛の時代であった100年を振り返り(1894年-1994年)、21世紀の100年を見据える小さなシンクタンクを目指したものである。

因みに1894年から1994年の100年は、前半の50年が日清戦争(1894年7月―1895年4月)が1894年7月23日に実質的に始まり、日露戦争(1904年2月6日 - 1905年9月5日)、第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)、ロシア革命(1917年)、シベリア出兵(1918年―1925年)、支那事変(1937年7月―1945年8月)、第二次世界大戦(1939年9月1日−1945年9月2日)と続いた。後半の50年は、中国内戦の拡大と中華人民共和国成立(1946年6月−1949年10月1日)、朝鮮戦争(1950年6月25日-1953年7月27日)、冷戦(1945-1989年)、日本のバブル崩壊へと至る。尚、第一世界大戦の連合国、日英米仏によるシベリア出兵は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で行われた。

この100年を省みる事により、21世紀の日本、世界を予見できるヒントが見つかり、21世紀を日本の世紀、世界繁栄の世紀とする事が可能であるとの認識に基づき「21世紀問題研究会」を設立した。上記100年の歴史を見ても一見、驚天動地、激動の100年に見えるが、そこには人間社会、歴史の普遍の傾向が見て取れる。

社会の変化と義務教育
時代が変化する時、教育はどうあるべきか、変化に先んずる教育が可能であるのか、はなはだ哲学的問題を含んでいる。悪戯(イタズラ)に枝葉末節に走り、最先端思想、最先端科学、最先端技術と称されるものを追うことが教育ではない。先端技術とは歴史的承認を得ていない未熟な揺籃期の技術であり、そこから義務教育を必要とする若い人々への伝えるべきノウハウを引き出すには早すぎ、危険性を伴うのである。人とは所詮、一人一人を見ると、この世に生を受けわずか100年足らずの内に去って行く存在に過ぎない。百年前、千年前に生まれた人といえども、生れ落ちた瞬間の資質は変わっていない。1万年前の人間もそれほど大きく変わっていたとは考えられない。

人として生まれながらに備えている共通の先天的な資質を基に、教育を与え、生れ落ちた環境の中で生活し、変化に対応できる能力を身に付けさせるのが教育の普遍的役割であり、価値である。ここに教育の不変の原理原則がある。

日本の義務教育の歴史と義務教育改革の必要性
先月号で過去120年(1880年代から現代に至る)に及ぶ日本の義務教育の歴史を述べ、その惰性と政治の怠慢を批判した。読者の記憶の整理と、新しい読者のためにその内容を要約、引用する。

“「1885年に初めて内閣が設けられ初代の文部大臣に森有礼が就任し、学校制度の改革に着手。翌年の1886年3月に帝国大学令、ついで4月には師範学校令、小学校令、中学校令が公布された。これによって日本の近代学校制度の実質的な基礎が固まった。」と言われている。この当時の義務教育年限は4年間である。約120年前の事である。・・・120年前には4年制の義務教育を実施し、60年前には9年制の義務教育を実施して来た。その後の日本の経済成長、日本社会の富の蓄積を考えると、経済的に義務教育年限を12年に拡大することは実に容易なことであったはずである。しかし、義務教育年限は9年間に据え置かれたままである。・・・近代国家として日本が4年制の義務教育制度を導入して120年が既に過ぎ、9年制の義務教育に延長されて既に60年が過ぎた今、未だに9年制の義務教育に固執しているとするならば、日本社会は「惰性の法則」に支配された自立心無き、怠慢に満ちた決断力無き社会と言わなければならない。”

社会の変革に応じて、日本の義務教育の抜本的改革を論じたものである。教育に理念は必要不可欠である。しかし、理念や奇麗事だけで全てが解決するものではない。現実を直視することの無い理念や奇麗事は危険ですらある。教育には、それを支える教室や教材といった設備やノウハウ、人材、予算が必要不可欠である。その設備、人材を提供するためには金と時間、準備期間を必要とし、それを理解し、支える社会が必要である。日本社会は豊かとなり、社会として教育のための予算、又労働生産性の高まりにより修学年限の延長、拡大を可能にする時間を作り出して来ている。更に、この120年間の経済成長と相伴った社会の高度化、国際化は私達の生活空間の拡大をもたらし、情報の幾何級数的ともいえる蓄積は私達に必要とされる知識、技術を増加させ、高度化させただけでなく、同時に教育のために必要とされる教材を初めとする知識、情報も蓄積してくれたのである。

人間本性、成長に沿った教育
現在私達日本社会が持つ利用可能な「教室、教材等の設備やノウハウ、人材、予算」を上手く有効に活用し、人間の本性的な成長の時間に沿った教育を行う必要があると私は思っている。人とはどこまで行っても一個の生き物であり、一個の動物である。医学の進歩、衛生状態・栄養の改善等により平均寿命は確かにこの100年急速に伸びて来た。しかし、人間が肉体的に成長し一個の成人となる年限には大きな変化は生まれていない。高々100年、200年で生まれるはずも無い。古来より語り伝えられる、人の人としての肉体的に成人に達する年齢は、個人差は若干あろうが、満年齢で15-17才である。

日本の若者がこの年齢に達する時点で、現代社会において必要とされる基礎的な知識、十分な基礎学力、将来応用可能な理性、ノウハウを提供することが、今の日本社会の将来世代に対する責任である。これが、私が4歳就学開始、16歳義務教育終了とする提案を長年続けている所以である。人間の動物的な成長時間を考え、こういった12年に及ぶ義務教育を与えれば、当然の帰結として16歳で成人として認め、諸権利を付与し義務を要求して行くことが人を人として遇する道であり、自立した人間を育てる最善の方法である。

教育に終わり、完成という事は無い。十分な成長、人格形成を待って選挙権を与え、自立した人として遇するというのは、教育に対する過信であり、人間性に対する無知を示しているに過ぎない。

日本の教育の克服すべき課題
義務教育12年制採用時の学校制度は、現在と同じ6,3,3制度とするか4,4,4制度とするかは識者の判断を待つとしても、初等においては一層の基礎教育(読み書き算盤、体育、音楽、絵画といった情操教育)を中心とし、中等教育においては伝統的な数学、理科、社会、国語、英語教育を含めた全人教育を目指し、高等義務教育においては一個の人間として自立した批判的精神を身に付ける人材教育を行ってゆくべきだと思っている。

因みに、今回の前段の記事は、インターネットの検索その他で、私自身の記憶を確認しつつ修正し纏めている。悪戯(イタズラニ)に知識を詰め込む必要性は、現代技術の進歩と、情報入手の容易さのゆえにもはや無いのである。今後の社会で重要性を増すと思われるのは「論理考証能力」、「批判的精神」と「自立した判断力」である。この3つの要素が、現在の日本の教育には歴史的に不足しており、私が危惧し、日本の教育改革を提言している理由でもある。(佐々木 賢治)
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余談ですが、英語教育についても日本社会で大きな誤解と混乱が生まれていると思います。単に英語力育成のためだけの教育は本来ありえず、人間教育の中に如何に英語教育を生かして行くか、こういった哲学重要と考えています。もっとも多くの英語教育は、それ以前の教育技術、方法論、教材にまだまだ改善されるべき点が山積みしているのが実情です。

佐々木 賢治
SIA Inc. Sasaki International Academy



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