2009.08.04

010422-SIA評論: 自民党総裁選:小泉氏勝利と衆議院小選挙区制度

2001年4月24日 午後3時半 筆者:宇田司郎
本日4月24日午後2時前に行われた自民党総裁選挙で小泉氏は圧倒的勝利をおさめた。開票結果は以下の通りである。

小泉純一郎 298票
橋本龍太郎 155票
麻生 太郎  31票
無効票     3票
総投票数  487票

いよいよ小泉自民党総裁の誕生であり、小泉首相の誕生となった。今回の自民党の総裁選挙ほど、面白く且つ不可思議なものはない。なぜ橋本氏が破れたかであり、何故小泉氏が勝ったかである?勿論小泉氏の国民的人気、橋本氏の不人気、現在の日本政治に対する逼迫感に一因があるが、もう一つの理由は結論から言えば衆議院の小選挙区制度にその原因がある。1994年の公職選挙法改正によって導入された衆議院小選挙区制である。

マスコミ論調、一般国民の意識としては世論の力であり、当然の結果でろう。しかし旧田中派の流れを汲む橋本派の面々には信じ難い現象であろう? 今回の結果は単に小泉人気だけによるのではない。今回の総裁選挙において党員投票、予備選挙が重要な役割を果たした事は事実である。しかし、かっては河本氏が日大OBを中心に膨大な数の党員を集めたが、党員投票でも大敗を喫している。最後の投票段階で田中派の組織力に破れたのである。その違いは小泉人気もあるが、現在の国会議員の選挙制度にある。

田中角栄氏は派閥政治の天才であった。その政治手法を熟知し、これ迄自民党党内闘争を勝ち抜いてきた旧田中派の面々が見落としていた一点があったのである。衆議院の選挙区制の小選挙区制への移行であり、参議院全国区の選挙制度変更である。それは田中氏自身がかって述べた、選挙制度と派閥の関係にある。かって昭和30年代自民党は八個師団と称される、八つの派閥があった。しかし田中氏は自民党の派閥は5大派閥に収斂すると述べた。その根拠は衆議院の選挙区が当時中選挙区制であり、最大定員の選挙区でも議員定数は5人であったからである。同氏の理解が正しかった事は、その後田中角栄(首相在任期間1972-74)、三木武夫(74-76)、福田赳夫(76-78)、大平正芳(78-80)、中曽根康弘(82-87)各氏が率いる5大派閥が長年に渡り党内勢力争いに明け暮れ、この5人が何れも自民党総裁となり首相となった事で証明されている。この5人が、大平氏急死の跡を継いだ大平氏の腹心鈴木善幸氏も含めれば、実質16年に渡り政権の座に着き、その唯一の生き残りが中曽根氏である。

小選挙区制導入は、通常最大多数党に有利である。それにもかかわらず、自民党の中でも小選挙区制に批判的な勢力があったのは主流派、田中派の支配を嫌ったためである。すなわち、小選挙区制は各党における党内政治力学を根本的に変える事になるからであった。主流派支配の構図が透けて見えたからである。これは田中氏が首相の座に着いた前後から、特に自民党参議院議員の中で田中派の勢力が圧倒的であった事によっても実証されていた。参議院地方区の選挙区はほとんどが1人区であったからであり、それはやがって1983年の参議院選挙からドント式比例代表制が全国区に導入されるにいたり更に拍車がかかったのである。
このため、当初旧田中派の流れを汲む小沢氏、その他旧田中派の面々は小選挙区制導入に積極的であった。自民党の旧田中派による完全支配が可能と見たからである。その導入に警戒的であったのが中曽根氏であった。事実、小選挙区制導入以降、旧田中派は分裂を繰り返しながらも一層力を強大化して来たのである。このため橋本派、及び古賀幹事長は橋本氏の勝利を確信していた。野中氏は勝利を更に強固なものとするため、締め付け、人事すらもちらつかせて今回の総裁選挙を戦ったのである。

ところがここに今回の選挙の落とし穴があったのである。選挙制度改革の結果、主流派支配の傾向は強まったが、各選挙区の候補者は同時に選挙区内における派閥抗争を必要としなくなり、特に現職議員にとっては全ての自民党支持者と如何に付き合うかが重要となってきた。この結果、今回の党員選挙において各派閥の意向はかっての様には各党員に浸透しないだけでなく、各現職議員は次回の選挙を考慮し、自分の属する派閥の意向よりも自民党員、及び各選挙民の、自民党への意向を重視せざるを得なくなったのである。ここに今回の小泉氏の勝利の秘密があり、橋本派の敗因があるのである。

しかし、それにつけてもやはり橋本派の体質を垣間見せたのは、野中氏の発言であった。総裁選挙の最中に、堀内派の支持と引き替えに選挙の議長役である古賀幹事長の留任を打ち出し、報奨人事買収工作を声高に始めた事である。「傲慢なり野中」と言った叫びが当方に迄届いた程である。野中氏が京都で蜷川府知事に対して対決する事で頭角を表した事は良く知られている。京都府庁における蜷川知事、共産党、その支配下の労働組合による横暴は私自身も直接、京都市長選等を通じて目撃した。その功績、泥をかぶる決断力、実行力は評価するが、田中氏の流れを汲む公共工事、利権を後ろ盾とした政治が過去10年の日本の経済を停滞させ、未だに社会的混乱と不安を引き起こしている政治的責任を野中氏を初めとする、旧田中派、建設族議員は自覚すべきである。“君、国売りたもう事なかれ!”である。

景気浮揚策を建前として、一部業界、企業救済策は目に余るものがあり、日本の国家財政に混乱を引き起こし、日本の経済的活力を奪ってきた政策と決別すべきである。この意味において、“ばらまき”とパフォーマンスに終始した故小渕元総理の罪は実に重いものがある。

小泉氏の今回の総裁選期間中の発言を引用すれば、日本が貧困に喘いでいた戦後復興期には政府は無借金で諸施策を講じて来た。繁栄を迎えた1964年の東京オリンピック以降政府は借金を始め、最初の100兆円の借入残高を作るのに18年、200兆円に達するのに更に11年、100兆円増やし300兆円に達するのに5年、更にわずか3年で100兆円増加し400兆円に達しようとしている。豊になれば成る程、金の亡者となると言うが、豊になるに連れ、借金を増やして来たのは田中派を中心とする勢力であり、又それを支えた国民であった事を我々は反省し、思い切った体質の変換を図るべきである。

しかし歴史とは、人の運命とは実に皮肉なものと改めて思うしだいである。橋本氏は私の見るところ、かって最も非派閥的、派閥政治を嫌った人物であり、小泉氏は反田中派の急先鋒、闘将であり実に派閥的な政治家であったと思っているからである。長きに渡り日本社会、日本人は政治に利権を求め過ぎて来た。他人の金で金儲けしようとする体質は、残念ながら善良を自称する有権者、小市民に至るまで蔓延している。この結果が財政赤字であり、不良債権の実質的な国家救済となっている事を果たして日本国民は自覚しているのであろうか? 小泉氏の蛮勇に期待すると同時に国民の理解を求める次第である。

かって若き、アメリカのリーダー、ジョン・エフ・ケネディーは1961年1月の就任演説で国民に呼び掛けている。「国家に何をしてくれるかを求めるのでは無く、国家に何が出来るかを考えて欲しい」 “My Fellow Americans: ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.” 以上。



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