2009.08.26

090812-SIA評論:65回目の敗戦記念日に思う、裸の王様 第一回

SIAの佐々木です。今年もお盆の時期も連日事務所で過ごし、皆さんから依頼の契約書の翻訳、問い合わせの調査、英語講座の授業の傍ら、いろいろな文章を纏めていました。

その一文を8月12日に纏め会員関係者には送付いたしました。本日、SIA評論定期購読者以外の方にも送ります。ご覧下さい。ご意見、ご感想はSIA迄どうぞ。SIA評論定期購読ご希望の方は、SIA事務局まで連絡下さい。

090812-SIA評論:65回目の敗戦記念日に思う、裸の王様 第一回

65回目の敗戦記念日に思う、裸の王様:第一回いつも思うことがある。愛国心、正義、倫理といった言葉が空虚に語られる危険性である。時代を超えてこういった言葉は空虚に語られてきた。個々の表現を変えて戦前戦後を問わず語られて来た。1970年前後の事であるが、流行った歌がある。「右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い。」といった言葉である。

この歌は、その後「・・・・・どこに男の夢がある。」と続いていた。その当時から既に40年。しかし、人の世は替わらない。当時は、ベトナム反戦、核禁止、沖縄返還が語られ、環境汚染、世界平和、人間愛(ヒューマニティ)が語られていた記憶がある。現在は、温暖化、核廃絶、少子化問題、高齢化が語られている。

愛、平和、友情、人類愛、良心、倫理は人皆、誰でもがそれぞれに持ち、希求する物であるだけに、洋の東西を問わず、時代を超えて常に語られるのは当然のことである。当然の事であるが、それを自らの衣服として煌びやか(キラビヤカ)に着飾り、自らの利益と自己主擁護として使い、他人を攻撃する鎧(ヨロイ)を隠す、衣(コロモ)として利用するとなると事は複雑となり、重要な問題となる。

私なりに学び、調べた戦前(第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争)の人々の書籍やマスメディアを通じて知る記録や言動、戦中の記録や言動、更に私が多感な青春時代を過ごした1970年前後の時代直接知る人々の言動、書籍やマスメディアを通じて知る記録を辿り(タドリ)、整理し、考える度に「右を向いても、左を見ても」、「戦前を見ても、戦後を見ても」と思わず口ずさむ、己が声に驚かされる。

裸の王様とさか賢しき人々:アンデルセンとイソップに学ぶ
「裸の王様」という童話がある。皆さんも読まれたことがあると思う。この本は、私が1994年に開校した佐々木インターナショナルアカデミーでは当初よりイソップ物語と並んで、英語学習初心者の必読書としている。因みに当方で使っている、教科書では「The Emperor’s New Clothes」となっている。作者はハンズ・クリスチャン・アンデルセン、1805年生まれで11歳の時父親を亡くし、30歳前に執筆活動に入り、1875年70歳にして亡なる迄に156の物語を残したといわれる。因みに当方で使用しているイソップ物語の教科書は、Aesop’s Fablesである。このイソップ物語の著者と伝えられるイソップ(Aesop)は紀元前6世紀、現在のトルコ、フィリジアに住み、奴隷の境遇から身を起こし自由人となり、後に戦場で山腹から投げ落とされ亡くなったと伝えられる。少し話が横道にそれたが、何れも易しい子ども向けの話の中に人生の透徹した真理を伝える、人生の教養と知識を与えた偉大な人物群に連なる人達である。

「裸の王様」の物語、逸話の内容については読者諸兄が既にご存知であると思うので省略する。見栄と欲得を離れ、自分に正直であれば真実が見える。愚者には透徹した真理が見える。かしこ賢い優秀とされる人々が如何にさか賢しらを立て、自らの利害に執着し国を誤らせるかを語っている。王たる者、指導者たる者、保身のために迎合するさか賢しき知者に取り巻かれると如何に危うく、天下に恥を晒し、我が身を危うくし、国を滅ぼし、国民を危機に瀕しせしめるかを語っている。緻密精妙なる言辞、議論が如何に当てにならないかを語っている。2400年の時間を越え、当時小アジアと言われたトルコ、150年前の北欧デンマークの地理を超え、更に言語、生活習慣、文化を超え、偉人達の知恵から学ぶことが出来るのは実に恵まれたことである。

彼らの言葉は、政治学の父と言われるマキャベリ(ニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469年-1527年))が君主論(1516年献上、彼の死後1532年出版)で当時の西欧社会で知られている古今の英雄、君主、統治者の事跡、記録を比較分析する形で君主に伝えようとした提言の真髄、一部が一般庶民に語られているのである。特に私が好きなマキャベリの君主論の一説は「死の危険が遥かかなたにあり、国が安定し君主が繁栄を謳歌し、何らの助けも必要としない時、君主のためならばいかなる犠牲も省みず、死も恐れず支援に駆けつけると声高に叫ぶ多くの臣下、武将。しかし、一端国に危機が迫り、本当に君主が助けを必要とする時、そういった人々は瞬く間に逃げ去ってしまう。」との指摘である。こうも明らさまに真実を指摘されてしまうと、多くのさか賢しき人々は保身のためにも、彼の言説をマキャベリズムと言って切り捨て、反道徳的、人倫に反するとして非難せざるを得まい。特にこの現象は日本の知識層に多い現象と指摘されるが、日本に限られている訳ではない。

日本海軍の精神主義:軍神東郷平八郎の呪縛さて振り返って、日本の第二次世界大戦前後の日本社会である。日露戦争の英雄とされる東郷平八郎の言である。「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」と伝えられる言葉がある。実際に図上演習を行なうまでも無く、両軍が睨み合いイザいっせいに先端の火蓋が切って落とされたならば、瞬時にして明白である。百発百中の砲一門は百発一中の砲百門の百発の砲弾を受け沈黙し、百発一中の砲百門は百発百中の砲一門のただ一発だけの砲弾を受けて一門が沈黙し、残った99門がその後活発な砲弾の雨を降らせ続ける事となる。発射速度が同じとして、100倍の制度を誇っても、10倍を超える砲門に対することは不可能である。実際の戦闘では砲一門ということは有り得ないので、狙った砲には当たらず、隣の砲に当たる事も頻繁であるので、更に不利な状況が生じるのである。

昭和に入っても尚、東郷平八郎のこの言葉が、大手を振るって語り継がれたという事自体、実に戦略的な思想に欠け、精神論に走った海軍の体質が見え隠れするのである。本来軍というのは、数学的才能を必要とし、ナポレオンは数学的才能に長けていたと伝えられ、有名なナポレオンの公式がある。その公式とは両軍の戦いにおいて他の諸条件が同じであれば、両軍の兵力の二乗に比例するというものである。「2倍の兵力は実際の戦場では、その二乗4倍の効力がある」というものである。

指揮官の愚は罪悪
東郷平八郎のこの有名な言葉「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」に代表される精神論、誤った思想が、結果的に一機必殺の特攻戦術となり、軍事戦略上愚行とされる、戦力の集中使用を妨げる結果となったのである。この海軍の誤った思想は、単に耄碌した東郷平八郎だけの問題ではなく、これまで善玉とされて来た海軍にその多くの問題があった事が、初めて大衆に明らかにされたのが、この夏のNHKの「海軍400時間の証言」であった。しかし、その番組を見てもやはり、未だ納得のいかない数々の事例がある。その辺を今後少し、「65回目の敗戦記念日に思う、裸の王様」と題して書き綴ってみたいと思う。

愚かな一発必中主義、愛国の信念・精神論の多弁は愚かな指揮官、愚将の常、陶酔の口舌である。愚将は部下、若者の犠牲的精神とその潔さを称え、国家社会に対する部下の純粋な気持ちを伝える伝承者になる事によって、愚将も又人格者として称えられる構図が出来上がる。この事態を痛切に批判した言葉がある、「一将功なって、万骨枯る」である。この言葉は、中国の人、中国晩唐の詩人曹 松(そう しょう、830年? - 901年?)の言葉「一将功成萬骨枯」である。昔から「兵隊の馬鹿は死ぬだけだが、大将の馬鹿は罪悪である」と言われている。庶民の知恵である。(佐々木 賢治)




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