2007.09.11

古来、優秀な若者が自らの夢と、家族、同胞の期待を一身に背負って遠隔の地で勉学に勤(いそ)しみ、言葉の困難を乗り越え、生活習慣の相違に悪戦苦闘しながら、精神的孤立、経済的困難、又将来に対する不安に立ち向かって来ました。日本の歴史の中でも遣隋使、遣唐使の時代から隋や唐に渡り、彼の地で病に倒れ、祖国の地を踏むことなく眠る人、歴史に痕跡を留めることなく忘れ去られた多くの人がいます。いつの世も国費留学生は恵まれた存在であり、多数の苦闘する私費留学生がいました。


現在は交通機関、通信手段の発達により、時間的にも経済的にも、かつて隣村を訪問するのと同じような時間間隔、情報感覚で留学、海外生活、海外赴任をする事が可能となり容易なものとなりました。国家間、各文化圏間の相違も少なくなったとは言え、慣れ親しんだ郷里を離れ生活をする若者の孤独、夢、野心、家族の期待があります。その一面について紹介します。

070908-佐々木宛SIAOBからの通信:指導教授から解雇命令を受けた同僚留学生

ドイツに戻り、ちょうど一週間が経ち、ようやくこれまでの平穏な生活に戻りました。こちらの気温は、日中は 15℃くらいまであがることもありますが、5℃あたりまで下がることもあり、既にセーターを着ています。

今日ご連絡させて頂くのは、韓国出身で研究室の同僚において起こったことです。実は、私の休暇中にその同僚が教授から解雇命令を受けました。

韓国では大学でポストを確保するために博士課程(工学)終了時までに最低10本程度の論文を出しておく必要があるそうです。彼は、2009年8月から母国の某大学で教授の席を用意されていて、そのためには博士修了時までに相当数の論文を提出しておく必要があり、結果的に27編という信じられないほどの論文を教授の許可なし(教授の名は載せていないが研究室名を使用していた)に提出していました。彼は、数年前に論文提出についてこちらの教授に相談したことがあったのですが、内容が未完成で時期早尚だと判断され、「執筆よりも研究に集中する」ように言われていました。

この執筆活動により、当然のことながら研究は遅れ、彼は教授の求める研究に到達できないまま時期的に博士論文をまとめなければならないような状況にありました。彼にとってみれば博士論文は最低点でもいいから、諸定の論文数をクリアし、大学のポジションを確保することの方が優先でした。

裏の執筆活動を知らなかった教授は、彼の研究のボトムアップのために尽力をつくされてきましたが、今回のことが明るみになり、容赦なく彼を解雇しました。

また、彼は周囲との良好な関係が保てず、研究室では孤立した存在でした。同僚のドイツ人もどうやって彼と接すればよいかわからず、結果的にほとんど相手にされないようになりました。家族意識の強いドイツでは、そのような状況が良いとされる訳もなく、こういった状況も解雇命令に大きく作用していることは容易に想像がつきます。

尚、私は「このような奇妙でイリーガルなことがアジアでは許されるのか?」という何人かの同僚から質問されたりもしました。

彼の4年半の博士課程という歳月を考えると誠に残念な話です。一番の問題は、基本的な彼のものの考え方、進め方にあると思いますが、彼の置かれていた状況を考えると同情の余地もあります。日本も韓国ほどではないかもしれませんが、論文「数」至上主義の傾向があり、以前お会いした日本の先生方もそれについて嘆いておられたのを覚えております。以上、取り急ぎ、ご報告まで。

070909-SIAOB留学生への返信:

報告有り難う御座います。日本ではチームワークを重んじる傾向が強いので、論文数偏重の傾向が強いとは言っても、先ずこういった指導教授に内緒で論文を出すといった事態は余り無いと思いますが、いかがですか? かって日本では実際の執筆者の名が最後に掲載され、研究室の教授、上司の名が上に掲載されるため、私の先輩は1980年当時、米国でのポストを求める際に苦労しました。

さて解雇された韓国からの留学生の件について触れます。その解雇された方は、少なくとも論文数を条件として韓国での教授ポストを保証されていた訳ですから、その人の個人的資質もさることながら、現在韓国社会に内在する問題もあるのかも知れません。論文の質と量の関係については、その人の個性もあり、一概に言えません。こつこつと小さな物で論文として絶えず出すのが良いと言う事も一理あり(人間の怠惰、迷い、決断力のなさを考えると)、又短い1,2編の珠玉の論文で評価される方。意外に洋の東西を問わず普遍と思われる部分と国民性の相違と個人的な相違、及び各事例、事例の特殊要因が混在しますので判断に迷うことがあります。ただし現在の韓国は、日本以上に海外で評価されると国民的英雄になる傾向が強い様な気がします。韓国国内での教授ポストもあり、韓国国内での評価を求めて、相当にアグレッシブな行為をしたのだと思います。

070910- SIAOB留学生への返信、追伸

今回の事例は、貴兄がその韓国人留学生のために励まし、何らかの支援をするにしても対処が難しい問題です。彼の気持ちになれば、夢であった母国の教授のポストが約束され、チャンスを逃したく無かった気持ちも分かります。しかし、冷たく言えば、実力以上のチャンスに恵まれた悲劇とも言えます。

教授も彼の将来を思えばこそ行った献身的指導に対する、彼の裏切り行為ですから、彼を人間的に信頼できず、又他の指導生に対する示しを付けるためにも容赦は出来ないでしょう。自分の指導下にあって論文を粗製濫造されては、本人の将来もさることながら、指導している教授のブランドも下がります。これが回り回って、その門下生の評価にまで繋がります。

この辺の所が阿吽(アウン)の呼吸で解りますので、指導されている他の学生もモラル+α(アルファー)で彼の行為には否定的になり、容認出来ないと思います。こういった環境下で、間に立ち発言する場合は、先ずは君自身の判断、考えを最優先してこの問題に対処しコメントするのが良いと思います。ただ、彼を助けるために状況説明をするのであれば、「韓国ではどうも未だに、人間関係、学閥が非常に重んじられる傾向にあり、目の前に約束されたポストを得るために焦りがあったのでは」と言う事も一方です。

あくまでも相対的な話ですが、日本は、幕末から明治に掛けての近代化(明治維新)で、下層武士が政権の座に着き、高等文官試験制度、客観的実力主義の導入(客観的学力主義=学歴主義 入学試験は試験成績のみで決定等)により、人材採用に置いて家柄や政治の介入が制限されました。しかし、朝鮮半島では封建的な身分制度、両班(ヤンバン 高麗時代に始まり李朝で確立したとされる政治的・社会的特権身分階級。因みにチャングムの誓でもこの両班は出て来ます。)制度が近代化を阻害する要因となりました。1910年日韓併合により朝鮮半島は日本の統治下に入り、教育制度の導入で家柄や血統主義が是正されたと言われています。1965年の日韓国交回復以降の漢江の奇跡(Miracle on the Han River 注参照)と呼ばれる高度経済成長により国民所得が急激に増大しました。こういった中、急激な教育熱、大学進学率の上昇が生まれ、ある意味朝鮮半島で初めて味わう、自らの努力で自らが評価される実力主義社会が訪れたのです。この結果1990年代の大学受験への熱狂は社会現象ともなりました。私の見聞きするところでは、この行き過ぎた弊害に反省機運も既に生まれていますが、時間を要すると思います。

こういった社会環境、圧力の中に貴兄の解雇命令を受けた韓国の同僚はいたのだと思います。いつの世にも強い人間は少なく、大方の人は時代の風潮に流されます。時代の脚光を浴びる多くの人は、こういった弱い、時流に乗った人なのかも知れません。

(注:この高度経済成長の影響、恩恵が韓国社会の隅々に浸透し、韓国社会の変化をもたらすのに20-30年要し、1990年前後からその症状が顕著となったのだと思います。私が米国で1980年代当時出会った韓国からの留学生は国に対する大変熱い思いを持ち、韓国は伸びると確信したものです。このため私は私の新婚旅行訪問先としてわざわざ韓国、ソウルを選びました。1989年2月のことです。以上私の経験、見聞に基づく私見です。機会があれば信頼できる韓国人留学生と意見を交換し、こういった見方を伝えれば、彼らの率直な意見が聞けると思います。)****(編集文責 佐々木 賢治)



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